「あ」
ぽつん、と鼻先にひとしずく。
今はもう雨に濡れる事なんてほとんどない。天気予報はスマホで見れるし、傘がなければマネジが持ってきてくれる。
最後に雨に降られたのは、確か。
「(ああ、そうだ。お祖母様の……)」
あの日はひどい雨だったけれど、そんな事気にする余裕もなかった。ただただ呆然としていて、大好きなお祖母様に何も言えないまま永遠に別れてしまったことを受け入れたくなくて。
「(あの時は……)」
ひとり帰ったあの雨の中、主任が綺麗なバラを差し出してくれたことを思い出す。今でも西園家の部屋には、ドライフラワーにしたそれがいつでも見れるよう飾ってある。
「(皆に、迷惑ばっかかけてたな……いや、今もだけど)」
しみじみ思い出しながら、鞄から折りたたみ傘を取り出そうとして、
「……あ、あれ?」
鞄の中に、傘がないことに気づいた。
◇
練牙が折りたたみを忘れたことに気づく数時間前。
「…………チッ」
遅く起きてきた礼光がダイニングに入って最初に見たのは、机に置きっぱなしになっているCopcの折りたたみ傘だった。この寮でCopcを普段から愛用しているのはたった一人しかいない。
「あの馬鹿……」
「はよーございま……あれ、練牙さん傘忘れてっちゃったんですか?今日雨降るから絶対傘持ってくんだ!って張り切って準備してたのに」
叢雲が手を出しひょいと折りたたみ傘を持ち上げようとしたら何故か持ち上がらず、礼光を見る。
「何のつもりだ」
「いやーこっちの台詞」
もう一度持ち上げようとしたところ、やはりしっかりと抑えつけられていた。
「なんですかー?まさか礼光さん、練牙さんがしっとり濡れそぼってる方が」
「妙な言い回しをするんじゃねえ。そんなわけあるか」
再度持ち上げようとした。失敗。
「あの?」
「いい加減にしろ。飯が食えねえだろうが」
「今すごく理不尽言ってるの気づいてます?」
それ、と取り合っている手元を指差すと礼光は傘と叢雲の顔を交互に見、気まずそうに手を離す。
「いや、これは……」
「分かってますよ、どーしても練牙さんに傘届けたいんですよね?」
「馬鹿なことを言うな」
「じゃあオレ届けますね」
数度繰り返したもののとうとう傘を取るに至らず、叢雲は満面の笑みで傘を押し付けるように渡す。
「仕方ないなー、今日は譲りますから」
「……ハァ」
ため息をつくと、礼光は折りたたみを持った。
◇
「うう……」
練牙は降りしきる雨を見て眉を下げていた。
ちゃんと傘を持ってきたはずなのに、いくらカバンの中を探しても見つからなかった。セレブは雨になんて打たれないのに。サングラスをして何食わぬ顔でカフェに入ったが、この後どうしようか。スマホで確認したところ、雨はこのまま明日まで降るらしい。不安をごまかすようにロイヤルミルクティーをちびちびと飲む。
「どうしよう……」
誰かに迎えに来てもらってもいいのだが、たかが傘を忘れた程度で朝班の皆を呼びつけるのも悪い。仕事が終わった後だからマネジも呼ぶのに気が引ける。でも雨は止まない。走って帰れる距離ではあるけど、でも。
「うー……」
練牙は目を伏せ、またカップを眺める時間に入った。
◇
「着きました」
「悪いな曹潤、逆方向に」
「いえ」
「車はこのまま戻してくれ」
曹潤は軽く目を見開いた。
「礼光様」
「問題ない。そのまま歩いて寮へ向かう」
手に持っているのはCopcの折りたたみ傘。暗い赤地に金のモノグラム柄のそれは明らかに礼光のものではないし、この後雨が上がるという予報はない。雨に備えて車に黒い大傘が積んであることは把握しているはず。
「……かしこまりました。お気を付けて」
「何かあればまた連絡する」
そうしてそのまま雨の中を歩いていった。やはり傘を持たなくていいのか聞くべきだったか。いや、何かお考えあっての事だろう。曹潤は逡巡を打ち切り、ハンドルを切った。
◇
練牙がどこにいるか、礼光は知らなかった。
スタジオの場所は知らされているし、彼が行っている撮影や打ち合わせといったおおまかな仕事内容は把握しているが、どこに行ってどんな撮影をする、誰とどんな打ち合わせをする、ということを彼は一切口にしない。礼光は、そういう面において彼がモデルという仕事に真面目で、真剣で、誠実であることに関しては、かなり高い評価をしていた。
「(だからといって馬鹿なのは変わらねえが……)」
HAMAツアーズの面々がよく使う馬車道近辺を歩く。色とりどりの傘の花が咲き、雨に濡れる新緑も目に明るい。
「(どこにいる……)」
風邪をひいて仕事に穴を空けることを許さないあの男が雨に打たれっ放しでいるとは考えづらい。とは言うものの。
「(この辺はカフェや食べ物屋が多い。しらみ潰しに当たるのも効率が悪すぎる)」
歴史建造物が並ぶ通りに出、そのまま公園方面へ続く道を歩くと、十字路に出る。
信号待ちでそこにあるとあるカフェに目を向けると。
「……はぁ」
道路沿いに見えるスタンド席で、俯いている犬を見つけた。
◇
礼光はそのまま店に入り練牙の隣に座った。気づいていないのか、練牙は眉を下げ、伏し目がちにすっかり冷めてしまったミルクティーをくるり、くるりとスプーンでかき混ぜている。
その憂いを帯びた顔に奇妙な胸の引き攣れを感じ、急き立てられるように声をかける。
「おい馬鹿」
「ん……。え、礼光……?」
礼光は何も言わず、そのまま折りたたみを机に置く。
「あ、オレの傘……。礼光が、なん……いやお前濡れてるじゃねえか!風邪ひいたらどうすんだよ!ええと、なんか拭くもの……」
さっきまで項垂れていたのも忘れたかのように他人の心配をし怒る。その善良さは確かに奇跡であろう。
「要らん。すぐ乾く」
「なんだと!お前が風邪ひいたら林杏ちゃんや杏氷さんがどれだけ心配すると……」
垂れていた耳が少しぴんと立ったように見え、礼光はどこか安堵を覚える。怒りは時に折れた心を立ち上がらせる燃料になると、礼光は長い長い時間を過ごす中で学んでいた。
「うるせえ、騒ぐな。俺は飲み物を買ってくる」
「あっおい!」
逃げるな礼光!という声を完全無視してレジカウンターへ。
「ブレンドのS。あと、……これと、ロイヤルミルクティー、ホットのS」
店に入るだけ入って出ていくのはさすがによろしくない。飲み物と目に付いた焼き菓子を頼み、ランプがほんのりと温かい光を下ろすカウンターで待つ。チェーン店はどこに入っても同じクオリティのものが出てくるという安心感がいいなとフロアを見渡す。ここは広い店内に加えて作業用に作られたボックス席もあり、勉強をする学生やPC作業をする若者にも好評だ。
「お待たせいたしました!ブレンドコーヒーとロイヤルミルクティーです」
「ありがとう」
客もそうだが、スタッフも自分や練牙に無反応、つまり誰に対しても同じ接客態度ということ。確かにここは入りやすいなと礼光は心の中の休憩場所リストに加え、席へ戻り、
「やる」
トレイに載ったロイヤルミルクティーとフィナンシェを練牙の目の前に置いた。
「はぇ……」
「要らねえなら俺が貰う」
「え、い、いるっ……!あち」
「慌てるな、茶は逃げねえ。……砂糖は要らないんだったな」
「ああ、紅茶は入れない。コーヒーは……苦いの苦手だからいっぱい入れちまうな」
いつもなら子ども舌だの何だのと余計な事ばかり言ってしまうが、先ほどの憂い顔がどうにも離れず黙ってコーヒーに口をつける。
「雨が止むまで、ここにいようと思ったんだ。『西園練牙』は、傘忘れて雨に降られるなんてバカな真似、しないだろって……」
そうだろうか。礼光は自分の記憶の中の小牙を思い浮かべる。確かになんでもそつなくこなしていはしたが、年相応に悪ガキであったし、レンが想像しているほど完璧超人ではないと、数千年とすこしの付き合いである礼光はよく知っている。
「……小学校から帰る時。アイツは水たまりに勢いよく飛び込んで、俺に思い切り泥水をはねさせてきた」
「キバが?」
「ああ。俺もやられっぱなしじゃいられないからな、負けじと泥水をはねさせて……汚れて帰った。呆れられたり怒られたりしたが、汚れたツラや服が何かおかしくて、二人で笑っていた」
あの時はお互い年相応の子どものようにいられたな、と戻れない日々に微かな感傷を覚える。
「ふふ。お前もキバも、結構子どもっぽいところもあったんだな」
「まあな。……だから、あまり気に病むな」
「へ」
「キバ……お前に合わせるなら『本物の西園練牙』も、濡れることは別に厭わない。むしろそれを笑えるようなヤツだ」
「……そ、っか。お前が言うなら、そうだよな」
こういう時叢雲ならもう少しやさしい言い回しができるのだろうなと思うが、自分はそういうスキルを持っていない。
「まあ傘を忘れてしょぼくれるのがいい大人とは俺は到底思えんが」
「なんで余計なこと言うんだよ!せっかく見直してやろうと思ったのに!」
「フン、事実だろうが」
「くっそ、絶対傘入れてやんねえからな!」
「ああ、結構だ」
「ぜ、絶対だぞ!ほんとに入れてやんないんだからな!」
眉を釣り上げ二色の煌めきを向ける練牙にどこか安堵を覚えている自分がいる。やはりコイツはこういう元気で、ある意味子どもっぽくいる方があっているのだから。
「腹に入れ終わったら帰るぞ。濡れる時間は少しでも少ない方がいいだろう」
車に傘を忘れた自分を棚にあげ、礼光はカップに入ったコーヒーを呷る。
外の雨はいつしか小雨になり、雲間からは鮮やかな晴天が顔を覗かせていた。
