おいしいバームクーヘンの食べ方

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 陽の差し込むリビング。
 礼光と練牙は並んで座り、ゆったりとした時を過ごしていた。
「ん……」
 練牙は礼光の肩に頭を預けてうつらうつらと船を漕いでいる。傍の礼光はそれに目を細め、煉瓦色の髪に時たま指を通す。その表情はあまりに優しく、彼が冷酷無慈悲なチャイナマフィアであるとは到底思えない程だ。
 斜向かいにあるソファでは、その様子に当てられた叢雲とキバが半目で茶を啜っている。
「はは、何ですかあのゲロ甘空間。ふたりだけの世界ってやつ?お二人さーん、ここ共有スペースですよー。」
 叢雲の皮肉もどこ吹く風、練牙と礼光…主に起きている礼光だが、愛情を確かめ合っていた。
「しっかし、あの礼光さんがあんな緩いカオするなんてね。昨日ヤクの売人締めあげてた人とは別人みたい。
 いやー、前世からの縁?ってホントすごいですね、キバさん。」
 叢雲は同じく茶を飲む隣の男に半笑いで話を振る。
「そうだろ?ほら見ろよ、あのレンの柔らかい顔…オレはあの顔のために生きてる。」
「そーですね。本当、幸せそうな顔しちゃって」
「……ただ。さ。なんで、そんなレンの隣は、俺じゃないんだろうな。
 なあレン、本当に俺じゃダメか?何がいけないんだ?戸籍がないからか?現代の法を守ってないからか?入れ替わりごっこ始めてからずうっとほったらかしにしたからか?礼光に毒盛って風呂に沈めたからか?」
 笑顔で半身の可愛さを語った次の瞬間天井を見て虚ろに言葉を作る。最近のキバは概ねそんな感じであった。
「いや〜……。まあ、そういう所じゃないですか?」
 そして、それに付き合わされるのはほぼ叢雲で固定化されつつあった。
 キバと礼光の永い宿縁が解決し、練牙と直接向き合う以前こそ嫌悪をむき出しにしていたのだが、このHAMAハウスで毎日目の当たりにする礼光と練牙のあまりの仲睦まじさにあてられ日々日々落ち込んでいく彼を見るうちに、憐憫が勝っていったからである。
「ていうか酒も飲んでないのに失恋した酔っ払いみたいなことブツブツ言うのやめません?聞かされるオレの身にもなって下さいよ。」
「え?お前まさか俺と飲みに」
「いえ、行きませんけど。」
 掴み合いが数秒発生した。
「ど、どうしたんだ?ケンカ……ぅわ」
「気にするな。喧嘩するほど仲がいいと言うだろう」
 そっか、と練牙はやわく微笑む。
「皆が仲良しなのって、こんなに幸せなんだな…へへ、嬉しい……」
 抱き寄せてくれた礼光へ寄りかかり、礼光はそれを和やかに笑い、撫でる。
「……はは。今のオレ達多分『当て馬』ってやつですよ」
「うるせえ……」
 際限なく落ち込んでいくキバに、やっぱ飲みに行ってやるかな、と少し傾いたが、なんで確定で面白くない酒に付き合わなきゃならないわけ?という当然の反論が心に浮かび、あえなく却下となった。

「つか烏てめえ、飄々と他人事ですみたいな澄ましたツラしやがって…」
 現状で本日一番の落ち込みから多少回復したらしいキバが、叢雲をじろりと見る。
「そりゃあね、キバさんと違って他人事ですから」
「嘘つけよ。…所詮俺と同類のくせに。」
 叢雲の表情が、ごくわずかに揺らいだ。
「……は?アンタとオレが?どこに目つけてんだよ」
 崩れた言動から、ぐらつかせたことを確認したキバは我が意を得たりと薄く笑って茶を呷る。
「いつもいつものらくらはぐらかしやがって。俺はレンの半身だぜ。そんくらいお見通しなんだよ」
「へー、観察眼すご。お見それしちゃいますね。そういう所も練牙さんとお揃いなんだ?」
「烏が囀ってんじゃねえよ。ーーいつも直接太陽見てるような目してるくせに」
 崩れそうになった笑みを、なんとか立て直す。
 とうの昔にそれが本心であることは認めている。が、コイツに気取られるのだけはごめんだとでも言うように。
「……はは、そう見えます?」
「見えるんじゃねえ。そうだろ?」
 叢雲はいつものゆるい笑顔を張り付かせ沈黙する。キバはそれを答えと受け取り満足げに茶菓子を手にとった。
「うまいぜ、鴎サブレ。食えよ」
「…ええ、あとでいただきます」

「ていうかオレまだ輪廻とか信じきれてないんですけど、全員本気で言ってるんです?」
 ほぼ空になった湯呑みをもて遊びながら隣に言葉を投げる。
 他の誰でもない、あの嘘がつけない友だちが言うのならそうなのだろう、とは思っているが、にわかには信じがたい話だという思いも拭いきれていなかった。
「え?お前レンのこと疑ってんの」
「練牙さんのことは信じてますよ」
 言外に「お前のことはまだ信頼に値しない」と伝わるような言葉を作る。
 大鹿や犬をはじめとしたHAMAツアーズの面々やHAMAハウスすら叢雲の中の「信用のおけるもの」「安心できる場所」として認め、受け入れるのにかなりの時間がかかったのだ。
 いくら練牙曰く「長いケンカ」をしていた大鹿と和解したとはいえ、平気で人を殺せるような男をおいそれと信頼できるような甘さも心の広さも持てないし、ハナから持つつもりもなかった。
「そっか。まあ受け入れんの難しいよな。……試してみるか?」
「遠慮しときまーす。」
 この男は確実に『やる』。例え目の前のふたりが悲しんだとしても、彼の半身との結びつきのために必要ならば、どんなことでも実行に移す。長い時間仄暗い世界で命のやり取りをしていた叢雲の本能がそう告げていた。
「じゃあ二度と俺とレンの繋がりを否定するようなことを言うんじゃねえ」
「すみません。気をつけますね」
 こいつ大鹿(礼光)並みに頑固だな、崩すのは時間がかかりそうだ、と互いに同じ感想を持っていることなどつゆ知らず、二人は隣り合ったまま冷めた茶を啜った。

 二人の話を飛び飛びで聞いていた練牙は、礼光を不安げに見上げる。
「な、なあ礼光。礼光は、オレとすくえん、がなくても、本当に好きになってくれたのか……?いや!疑ってるわけじゃないんだけど…」
「ああ。」
 その即答を受け取った途端ぱあ、と晴れる練牙の表情を見るや、礼光は意地の悪そうな笑みをつくる。
「そうだな、それこそ出会った頃はなんだこの馬鹿はこんな奴が俺の友人になろうとしてやがるのかと酷いもんだったが」
「あ?!お前そこまでいうか普通?!」
 向かいから殺意がふたつほど飛んで来たが礼光は無視した。
「まあ聞け。……それは、お前ときちんと向き合っていなかったからだ。昔の俺は視野狭窄で、狭量だった」
 向き合うことを恐れるなと母に言われたことを思い出す。言われた当初はキバとの間柄のことにしか目が向かなかったが、それは違った。
「しあ……きょ……」
 未だ得意になれない漢字の熟語に目を白黒させる練牙を撫で、礼光はゆっくりと言葉を作る。
「お前をお前(レン)として、ひとりの人間として見れていなかった。キバへの憎悪に囚われて目が曇っていた」
「っそ、そんなこと……ない、……かも……?」
 今まで積み上げてきた行いを思うと言い切れるわけもなく、ふいと目を逸らすレンに苦笑する。
「事実お前には酷いことを言ったし、態度も良くなかった。バカだの眼科に行けだの資料作成がなってねえだの」
「わ、悪かったな資料作り下手で!これでもましになっただろ!」
「ああ、平均20テイクに減ったな。最初期から思えばよくぞここまで伸びたと思っている」
「ホントに褒めてんのかよ!み、見てろよ…いつか文句言えねえような資料作ってやるからな!」
 練牙の持ってくる資料や提案はいつもHAMAへの大きな愛や優しさが随所から伝わってくる。ただそれを表現し切るには、ありきたりなパワポ資料などでは到底できないということは、数百回にもわたるやり取りで十分過ぎるほど理解していた。
 ただ、相手方に向けるにはそれを社会的な、外向けの形にー言ってしまえば「押し込め」ないと、そもそも受け取ってもらえない場合が多い。衣川や斜木のように熱意を製作物に込め黙らせる形もあるだろうが、それは突き抜けたクリエイティビティがなしうる技であり、ーそれこそ「天才」の彼らにしかできない方法だ。
 しかも彼が背負っているのはHAMAの中で最も目立つ、中心として存在する三区。その施策には当然厳しい目が向けられる。
 故に、まずはどんな者にも受け止めやすい、社会的な、一般的な形を作る。その窮屈な形の中でも己の意志を突き通せるようになって初めて、彼の本領たる愛情を自由な形で十分に発揮できるようになる。
 礼光はそのために心を鬼にし、導く。彼の持つ大きな愛を、己だけではなく、全てのものに知らしめるために。

 騒ぐふたりをキバは少し寂しそうな、言うならぶすくれた表情で黙って見ている。
「あれ、文句言わないんです?礼光さん結構なこと言ってますけど」
 キバは少し、目を伏せる。
「俺とヨウ…礼光も、前はあんな風だったからな。お互い言いたい放題やりたい放題しても、ふざけんなよお前って、お互いやり返し合って、笑ってた。」
 それはまるで、二度と手に入らないものを追想するかのように、眩しそうに目を眇める。
「…いや、なに?その、過去を儚むみたいな。今からまたそうすればいいじゃないですか。」
 心底不思議そうな叢雲に、すこし目を見開く。
「いや、これまでの四千年がどうだったかなんて知りませんよ。でも今回?今世?は十数年離れて抗争してただけなんでしょ?しかも和解にも成功して、この後は平和そのもの。
ならこれからの時間を、シャバい四千年よりもずっと楽しく濃いものにしちゃえばいいじゃないですか。
 練牙さんもたまにありますけど、なんで相手と話す前から思い込むんですか?もしかして挑戦とか奮闘っていう概念、四千年前にはまだ存在してなかった感じです?」
 大変腹立たしく皮肉めいた言い方だが、それが叢雲なりの励ましであることは、キバにも十分伝わった。
「…っはは。レンがお前なんかを信頼する理由がわかった気がする」
「素直に褒めてくれてもいーですよ?」
「誰が。だいたいお前レンとくっつきすぎなんだよ。あれでよく任務のためだとか言い張ってたな。」
「はは、当人に聞きもせず練牙さんのためだとか思い込んで辛い時もそばにいないで寂しがらせてた人には言われたくないなー」
 掴み合いが再度発生した。ただ、練牙はもう心配の目ではなく、それは仲睦まじい友だち同士の可愛いケンカを見るかのように目を細めていた。

 練牙は礼光に再び目を向ける。
「なあ礼光。礼光はむかしのオレのこと、好きか?」
 斜向かいからなあ菓子食わねえか、いいですねという楽しそうな話が聞こえる。オレも欲しいな、でも少し棒読みっぽいのはなんでなんだろう。
「ああ、お前を形作る全てが愛おしい」
 そして、こいつはどうしていつも、自分が今欲しい言葉をくれるんだろう。練牙は眩しそうに傍らを見上げる。
「…もしかして、さ。礼光は、むかしのオレが好きだから」
「今のお前を見る、と言ったはずだが。もう脳から抜けたのか?新陳代謝が随分活発だな。ダチョウでももう少し保つだろう」
「お前ダチョウに失礼だぞ!って、そうじゃなくてだな…!」
 きっと、彼には自分の言いたいことなんて全部わかっているのだろう。練牙はそれでも確認したかった。以前も同じように確認していたところ、
『試し行為はほどほどにした方がいいですよ、『重い』し、信頼されてないの?って相手も不安になるんで。…あ大丈夫。どれだけ重くても受け止める。はいはい、それはどーも。』
 と通りすがりの添に注意されたけれど、止められない。すぐ不安になってしまう。だって、だって。
「(むかしのオレ、もふもふ…じゃない!素直で、可愛かった…)」
 思い出した今、以前の自分とどうしても比べてしまうのだ。もっとむかしみたいに、あの波打ち際で話していた時のように純粋になれたらどれだけいいだろう、と。
 瞼の裏にあの海が浮かぶたび、二度と戻れない、手を伸ばしても届かない過去を、追いかけてしまいそうになる。
「練牙」
 ヨウ…礼光が、今の自分を呼ぶ。
「確かに過去は尊い。いい思い出も多い。確かに今のお前と比べれば、それはそれは純朴で素直だったからな」
「ふぐっ!…や、やっぱり礼光も、むかしのもふもふの方が」
「そんなわけないだろうが」
 衣擦れの音と共に、温かさが練牙を包む。
「過去は戻らない。二度とあの時は手に入らない。それは時間の摂理だ。
 だが、美しい過去の甘美な輝きに囚われて今を蔑ろにするのは、あまりに寂しいことだろう。」
「…え、と。」
「そうだな、馬鹿なお前にもわかりやすく言ってやろう。
 ーーー俺は、過去も今も、未来も。変わらずお前を愛している。」
 静かな共有スペースに、真摯な愛の言葉が響いた。
「わ、わーっ!な、そんなでかい声で言うな!ここリビングなんだぞ!」
 嘘でしょカンベンしてよ、レンお前その認識あってアレなのか?という呆れと驚愕の気配が斜向かいから漂ってくる。
「今更恥ずかしがることでもないだろう。
 ところでお前はどうなんだ。国を治めていた昔の俺の方がいいか。」
「ちがっ!そりゃ、ツノかっこよかったなー、とか、お供の鹿さんもっともふもふしとけばよかったな、とかあるけど!」
 今度の研修旅行には奈良を推薦するか、歴史ある神仏像が多いし、鹿せんべいをウキウキで買って鹿たちに殺到されるこいつを見てみたい、まずは大黒を納得させさせられるプラン作りだと礼光は瞬時に思考を巡らせた。
「そうか、それはすまなかった。今世ではそのように生まれられなかったからな、クリスマスのアレで勘弁して欲しいところだ」
「クリスマスの…ふ、ふふっ…」
「おい、なぜ笑う。てめえが鹿角を所望したんだろうが」
「いやそうなんだけどさ…ふ、くくっ…!いや本当にアレ、似合っ…似合って、…っ!」
 大変不満だが、彼が笑ってくれるならまあ本望かと心を鎮める。
「…ふん。元気になったみてえだな。なら改めて聞いてやろう。
 ーーお前は、俺を愛しているか?」
 その言葉に、髪より顔を赤くして。
「な、っ…あ、当たり前、だろ…!お、オレだって……お前のこと、あ、あい、あ……」
恥ずかしそうに照れながら顔を胸に埋め、尻すぼみになりながらも懸命に愛を伝えようとするそのあまりの可愛さに、たまらず礼光は口付けを落とした。

 その様子を目の当たりにしながら、叢雲とキバは無の心で茶菓子を開け、バリバリと食していた。
「なあ、」
 先に言葉を作れたのはキバであった。
「はい」
「血の涙ってさ、あるだろ。結構大袈裟な表現だと思うけどさ」
「そーですね。幾らなんでもって思います」
 ばり、と煎餅を割り砕く。
「案外出るもんだぜ。こういう時にな。」
「…あっはは、情報あざーす。」
 しばしの間、茶菓子うま、そうだな、どこのだろとお互いに言葉少なに語りつつただただ食べる時間が流れる。
 次に言葉を投げたのは叢雲だった。小さい羊羹に手を伸ばしながら、先ほどのキバに続けるように口を開く。
「あそうだキバさん、奥歯が砕けるってあるじゃないですか。」
「ああ。殴るとそうなるよな」
「まそうなんですけどね。アレ、自分でやっちゃうことも結構あるんですよ。歯ぎしりしすぎとかで。丁度今みたいな時なんですけど。」
「へえ、そうなのか。まだまだ知らねえことが多いな」
 また無の時間が流れる。
「…あー。オレ茶取って来るんですけど、キバさんどうします」
「気が利くな。…てめえと同じのでいい。」
「はーい」
 湯呑みを二つもちダイニングへ向かう叢雲の背には、ホントやってらんないねという言葉がありありと浮かんでいた。

 友だちがなぜか元気なさそうにダイニングへ向かう様子を見、練牙は叢雲とキバと礼光を心配そうに順番にみる。
「て、添、大丈夫か…?オレ、またなんかやっちゃったのか…」
「まさか、レンが悪いわけないだろ?アイツが勝手に落ち込んでただけだ。」
 その爽やかで力強い笑顔に、礼光は白光兄を想起した。相手の可愛さについ全てを肯定してしまうのは、やはり半身としての強い愛情なのだろう。
「そう、かな…。なあ、キバ」
「なんだ、レン」
 練牙は、心配そうに自分を掬いあげてくれた太陽を見る。
「キバはさ、オレが礼光や添と仲良いの、嬉しくない、か……?」
 半身のための笑顔が一瞬、揺らぐ。
「…そんなわけ、ないだろ。」
「でも、ここに来てからキバはずっとおかしい」
「コイツがお前に対して様子がおかしいのは前からだ」
「黙れ礼光、レンは今俺と話してんだよ。大分譲ってやったんだから、少しは時間を寄越しやがれ」
「そうだな、悪かった。二人でゆっくり話すといい」
 礼光は柔く笑って、茶を入れ直してくる、と席を立つ。
 二人だけの空間。
「や、やっぱり、オレが無理言ってここに連れ込んだから……ホントは、そんなのキバは」
「レン」
 不安に震える手を取り、お揃いの目をしっかりと合わせる。
「俺は、何よりも、誰よりも、いつだってお前の幸せを一番に思ってる。」
「キバ…」
「それはこれまでもこれからも、永劫変わらない。俺はレンが幸せなら、」
「キバっ!」
 合った眼をしっかりと見返し、言葉を作る。
「オレは、キバにも、…キバだけの幸せを、持ってて欲しい。オレだけがキバをほっぽって幸せになるなんてできないし、…絶対、いやだ」
「レン…」
 自分の半身はなんて慈悲深く温かいのだろうと胸が詰まる。自分はこんなにも汚れて、冷たくなってしまっているのに。
「キバはオレのためにずっと、ずっと頑張ってくれてた。…ちょっと、寂しかったけど。礼光とケンカしちゃってたのも…二人ともオレを思ってくれてたんだろうなって、今ならわかる」
 そう。この優しい太陽は、自分たち二人の長すぎる因縁を「ケンカ」の三文字で浄化してくれた。それが他の人たちよりほんのちょっと長く続いていただけなのだ、と。
「なあキバ。キバはずっとオレだけのためだった。すごく、嬉しい。何度考えても泣きたくなっちまう。でもそれでキバの時間も、楽しみも全部無くしちゃうのは、違うと思う」
 目の奥に宿る、優しくも強い光でこの世界でたった一人の、大切な、唯一無二の半身を見上げる。
「キバは多分、前の礼光みたいに、すごくて大切なことをずっと考え通しだっただろ?だから、今回は…今世は、目一杯楽しんで欲しい。
 そうだ!オレ、キバと行きたいところたくさんあるんだ!三区もそうだし、旅行もして、おいしいもの食べて、たくさん遊んで…ああ、ここにキバがいればな、って思ってたとこ、いっぱいいっぱいあるんだ!だからまず二人で…わ!」
 堪らず、キバはレンを抱きしめる。
 自分はなぜこの温かさを忘れてしまっていたのだろうか。
 四千年の記憶に呑まれて、大切だからお前のためだからと言い訳をして、勝手に孤独を押し付けて。尽きぬ後悔の念に駆られてしまう。一生灰とぼろ布を被って地べたに伏して生きていっても、この罪はきっと濯げない。
 だけど。
「(レンは、そんなことを望まない)」
 この世界を楽しんで欲しい、幸せに生きて欲しいと、他ならぬレンが望むなら。
 今世のことをあまりに置き去りにしてきたから、勝手が分からなくて、きっと、mまたレンに寄りかかってしまうけれど。
『これからの時間をずっと濃いものにしちゃえばいいじゃないですか』
 (ああ、そうか)
 あのいけすかない烏も、きっとこうして救われたのだろう。

「…えー。ミイラ取りがミイラになってるし。」
 ダイニングから戻ってきたら、今度は麗しいきょうだい愛が広がっていた。もはやリビングだの共有スペースだのという概念はきっと消失している。
「レン…レンは、あったかいな」
「へへ、キバもあったかいぞ…」
 聞こえてくる睦言を全て無視した。心を殺して生きた二曲輪での日々がまさかこんな場面で役立つとは、誰が想像しただろうか。
 誰かこの空気をどうにかしてくれよと候補を思い浮かべるも、昼班の学生たちはまだ授業中だし夕班はゲリラライブの準備、夜班は各々の店の営業やその準備。スケーターは普通に練習だし、社長は主任と営業で外出中。つまりこの甘ったるい空間はしばらく続くということ。
 煙草でも吸ってこよ、と見切りをつけるや気配を殺し、叢雲は湯呑みを置いて人気のないバルコニーへ移動した。
 ポケットから箱を取り出し、軽く底を叩いて出てきた一本を口に咥え、そのまま火をつけ、箱は胸ポケットに、ライターはズボンの左ポケットにしまう。以前はシゴトで昂りすぎてしまった気持ちを落ち着かせるためのルーティンでもあった。
「はあ…」
 重めのため息が紫煙と共に吐き出される。こんな時の煙草がまあ美味いはずもなく、ただくさくさした気持ちだけが充満していく。
「よくもまあ、人前で堂々といちゃつけるよな…」
 別にあの犬とずっといたいわけじゃない。嫌いだとかではなく、友だちとは本来そういうものだ。
 ただ、『友だち』と称して付き合っていたぬるま湯のような時間が、きっと長すぎた。だって、
「(いやー、はは。これ、重…)」
 大鹿と睦み合っている光景も、キバとじゃれあっている光景も。
「…見たくない、とか。」
 より自分の思いを分析すると、『オレだって』という叢雲にとっては非常に望ましくない結果が出力されそうになり、思い切り煙を吸って強制的に止めた。
 少し前の自分なら、犬がようやく自覚した『真クリア』、いわば強欲が報われたことに対して両手をあげて喜んでやるくらい鷹揚だったはずなのに、どうしてこんなにも『重く』なってしまったのか。最初にそれを拒否したのは自分の癖に。
 どんなに手を汚しても、女に引っ叩かれても、自分の行いに対して後悔せずに生きてきた。いちいちそんな思いに引きずられていたら生きていけなかった。
 でも、そんな命を削る世界から自分は解放されてしまった。これからは殺すことも殺されることもなく、人のやさしさ(ヒカリ)に溢れ、当たり前の日常が続き続ける、穏やかで平和な世界の中で生きていかなければならなくなった。
 日常の輪郭をなぞることは簡単なのに、いざ日常の中でどう過ごせばいいか、わからない。人の気持ちを読んで転がすことはできるのに、本当の気持ちを伝える方法が、わからない。
「…えー。オレこんなにダメだった?」
「てめえは前からダメ人間だろうが」
 入口から、今はあまり聞きたくない声が聞こえた。

 座るぞとも言わず当たり前のように隣へ陣取られる。練牙さんにかける優しさをもう一ピコグラム程度でいいからこっちにも寄越せよと思うが、自分も大鹿にそんな労りなどしないのでお互い様だ。
「なんですか?羽根が折れた烏(オレ)を笑いに?」
「そんなわけがあるか」
 そんな自嘲にいつも通り仏頂面で返す。
 礼光もまた、なんで俺がコイツの慰めなどしなきゃならねえんだそれくらい自分で解決しろと思っていた。が、叢雲がしおらしいと比例して練牙も自分を責めて落ち込んでしまうから早めに解決しておいた方が今後のためだ、と判断したまでで、全ては彼のためでしかない。
「何か言いたいことがあるなら全部聞いてやるが」
「なんで聴く側が初手からウエメセなんです?」
 半目で煙草をもみ消し、新しい一本に火をつける。その手元に目をやり、少し眉を上げる。
「銘柄を変えたのか」
「あー。アレ夜目立たなくて、プラス抱いた女どもから一番ウケが良かったから脳死で買ってただけです。今は好みの味を探してて…」
 パキン、とカプセルを潰す音。煙に混ざって、甘い香りが仄かに香る。
「今日のはメンソカプセル入り。噛むととこういう音すんですよね。……前は選びもしなかった」
「そうだな、随分重い煙草を吸っていて、…死に急いでいるようだった」
 その言葉に目を細めて紫煙を吐く。
「…そういう面もあったのかもですねー。肺をやれば動けなくなって処分されるし、臭いだってつく。そんなのわかりきってたのに、結局やめなかった」
「今は嗜好品になったか」 
「ヤニ吸ってたらいつか死ぬのは変わりませんけどね。もう少し前向きな気分で吸ってますよ。いつもは」
 この男は本当に自分のことを話したがらないなと持ってきた湯呑みをくいと呷る。中身は酒と迷って日が高いな、と選んだ烏龍茶だ。
「今日は違うのか」
 深く吸って、中空に煙を吐く。
「これから、どーすればいいんだろう、って。」
 言葉を続ける。
「今までは任務ありきで生きてきたし、いつかこのまま使い潰されて終わるんだって、思ってた。でもそうはならなかった。裏の生き方も死に方も知ってたけど、こんな穏やかで静かな生活が続く世界の生き方は、知らなかった。
 せっかくだしフツーのバイトやろっかなーって求人情報見てるんですけど、全然しっくりこなくて。ガッコも行きたいんですけど、大学は『叢雲添』が通ってただけだから学籍とか普通に消えてるし、学籍以前に戸籍周り自体がぐちゃぐちゃだしで、マジで今ここ以外の居場所がないんですよね。ま、元からだったのかもしれないですけど」
「なんならうちで働くか」
「礼光さんのとこって」
「俺が軒先を貸している雑貨屋や食堂や屋台だ。人手はいくらあってもいいからな。戸籍なんてもんに拘る奴らもいねえ」
 ぼう、と考えを巡らせる。
「……いやー。オレの考える『場所』とはちょっと、違いますね…。聞いといてすみません、またの機会にさせてくれません?」
「気にするな。お前が自分で考えた結果だろう。」
「その考えが全然着地しないから今こうなってるんですけどね」
吸いきった煙草を灰皿に放り込んで、また火をつける。今まで吸っていたものより軽くて甘い、若者に人気の煙草。
「逸る気持ちは理解するが、無理にどこかへいなくてはならない、と考えているならやめておけ。人間には休む時間も必要だということは、体を資本として生きてきたお前なら十分わかっているだろう。」 
「や、行きたい場所ならわかってるんですよ」
「ほう」
「ただ、きっと叶わない、届かないところだって、わかっちゃってるだけで」
 天使のような、耀く笑顔。書類をひっくり返して慌てふためく顔。資料が出来あがらず下がった眉でこちらに助けを求める顔。自分の名前を呼ぶ声。
「…ごっこ遊びを『本物』にしたい、なんて、今更あの人には言えない」
「そもそも本物だと思っているだろうからな」
 そうなんですよ、と項垂れる。
「オレがどんな考えでどう行動していたかなんて、もう全部バレてるじゃないですか。なのにあの人なんも変わらないし。少しは気まずそうにしてくれればこっちだって歩み寄りもしやすいというか。」
「怖いか、平穏が」
 しばらく黙って、煙を吐いて。
「………、ええ。こんなに何もしなくていいと、逆に。」
 足抜けした直後よりはずっと安定しているようにも見えるが、当人は自覚がないのだろう、と伏せた目のままの烏をみる。そうでなければそもそもこの時間も会話内容も存在しないのだが。
「…何かをしたいか」
 あいつのために、などという野暮な言葉を礼光は作らない。それが通じる相手だからだ。
「そうですね。…していたい、がより近いかも」
 叢雲もそれに応じる。
「そうか。ならいい仕事がある。」
「いや、あんたのとこの仕事は」
「違う。」
 礼光はその仕事内容を告げる。
「………あの、それマジで言ってます?」
「当人が常時募集中だと宣っていたぞ。給料は自分が出すからと」
「……あはは」
 本当に、あの人には敵わない。
「後で聞いてみます」
「今すぐ聞きに行けばいいと思うが」
「そういう気分じゃないんですよ」
「ほう?てめえは小牙と働く趣味があったのか」
 無言数秒。
「なんて?」
「常時募集中だと言っただろうが。てめえがその気を見せないならあいつはまず間違いなく小牙を誘うぞ」
 叢雲は文字通り頭を抱えた。礼光はその様子を肴にするかの如く、満足げに茶を飲む。
「…わかったよ、行けばいいんでしょ行けば。…クソ、なんであんな空間に戻んなきゃいけないんだよ」
「そちらが主か」
 当たり前でしょ、と睨みつける。
「何が嬉しくて甘々ラブラブな睦み合いを二組連続で見なきゃならないんですか。早く誰か帰って来てくんないかなと思ってましたよ、オレは」
 お前と練牙の関係も似たようなもんだろうがというと、きっとこの男は否定する。自分を俯瞰できるのはいいことだが、それが妙に捻れて一定の距離から他人に近づかないし、近づけない。
 そんな距離を悠々とぶち抜いてくる朝日のような彼にきっとーそんな表現は絶対認めないだろうがー、『すくわれた』のだ。
「ま、『友だち』が困ってるなら助けないとね。あーあ、ニート生活もう少し満喫してたかったなー」
「先ほどまで自分のしていた話をもう忘れたのか、都合のいい頭だな」
「当たり前でしょ。…知ってます?鳥って三歩歩いたら忘れるんですよ」
「鶏だろうが、他の鳥を巻き込むな」
「似たようなもんなんですよ、オレのなかではね」
 煙草をもみ消して立ち上がり、背伸びをする。傾いてきた夕日が少し眩しい。
「…じゃ、行きますか」
 その表情は、来た時よりずっとスッキリしていた。

「練牙さんただいまー」
「うひゃあ!」
 気配を殺して後ろから抱きつくと予想通りの面白い声が聞けた。
「おいクズ、何レンに触ってんだ!」
「キバ!添はクズじゃないぞ!ちょっとたくさんの方とお付き合いしてて、たまに表道でビンタされてるだけだ!」
「練牙さんてテクニカル悪口うまいよね」
「てく…」
 なんでもないでーす、と笑っていつの間にか隣に座り肩を組む。
「そうだ練牙さん、なんか求人してるんですって?礼光さんに聞きましたよ」
「そ、そうなんだ!ビラ配ったりしてんだけどあんまり効果なくて…」
「れ、レン?今ってサイト使う方がメインだと思うな…俺も鉄砲玉探すのに使ってたし」
「あはは。雇う側の話聞けるなんて助かっちゃいますね。で、そっちは使ったんですか?練牙さんは」
 キバと叢雲双方から指摘されると気まずそうに二色をそらす。
「…し、知ってた!一区長募集の時可不可や主任がやってたから、知ってた!ただ、やり方がわかんなかっただけだ!」
「結果として誰もきてないんですね」
「…いや、一応何人かはきたんだよ。ただオレとお父様とじいと可不可と雪風と礼光の眼鏡に敵わなかっただけで…」
「レン、雇う気ではあるんだよな?」
「ほぼ区長オーディションじゃないですか、ウケる」
 懐かしいなと思い出す。あの時は自分が残るように仕向けたわけだが今回は違う。自分の力だけで、確実にその席を取りに行く必要がある。
「ていうかその西園家フィーチャリング朝班面接オレだけ誘われてなかったんだ、寂しー」
「う…ご、ごめん。丁度添のご実家の引越しのタイミングで始めたから、ちゃんと伝えられてなくて…」
 当然だが実家の引越しというのはていのいい言い訳だ。『実家』にあったシゴト関係のもの全て処分していただけである。もちろん、『実家』ごと。『両親』はHAMAの外に引っ越して営業することになったのだということに表向きはなっている。
 全て、彼含めこの優しく温かな人たちを不安にさせないため。自分に安心をくれたこの寮に、二曲輪の残党を近づけないため。自分はただ闇バイトに参加させられていたのに気づいていなかったバカということになっている。それでいい。人を馬鹿にしてきた分が返ってきただけの話。
「いえいえ。ていうか誰も受かってない求人てなんかすごいですね。興味湧いてきたかも」
「ほ、本当か?!」
向かいから同じ顔の殺意が睨んできたがスルーした。
キバには話を通さず自分にだけ話したという時点で大鹿の意図をかなり感じるが、それでもいい。
作り物の『友だち』以外にも、この人のそばにいられる口実ができるなら。
「ていうか仕事内容ってなんです?マネージャーさんはもう超有能な人がいますよね。」
「ああ、芸能関係じゃなくて、オレの家の方だな」
「西園家の?」
「そうなんだ!…うちの羊になってほしくて!」
「執事ね。……執事??」
 そうなんだよ、と少し眉を下げる。
「じいも大分長いだろ?最後までお仕えしますって言ってくれてるけど、この先他に誰もいないってなるとさ…」
「…そっか、あの人まだ働いてくれてんだ」
ん、と頷き、指を合わせる。
「お屋敷の管理とバラや植物のお世話ができる人を探してて…オレやお父様は自力でどうにかすれば大丈」
「練牙さん。」
 叢雲は後半を遮った。
「うぇ?!ど、どうしたん」
「オレがなりますよ。それ。」
 友だちの顔を見るとなぜこんなにも楽しくなってしまうのか。久しぶりに高揚する気分を宥めながら言葉を作る。
「オレが、練牙さんのおうちの執事になります」
「え…い、いいのか?!」
「よくない!